片岡先生より、公共経営稲門会のホームページにご寄稿いただきました。
『グローバリゼーションの真実』
早稲田大学名誉教授 片岡寛光
一口にグローバリゼーションとは何かと言えば、ITを中心とした交通通信技術の飛躍的発達により、人と物とお金ないし資本と情報が既存の国家の枠を越えて瞬時に世界中を駆け巡っている現象である。このように現象を捉えて国家はやがて消滅するであろうと主張する人々はグローバリストであると自他共に自認する。彼らが共通して唱えていることは、それにより地球が縮まり、時差が無くなったとすることにある。しかし、そう感じるのは電車と電車とが擦れ違う時にスピードが早くなったと感じると同じような錯覚で、地球の緯度と経度の間隔は厳然として変わらず、時差も相変わらず存在する。ただ変わったのは移動する時間が短くなっただけで、それだけ急激に時差を感じなければならなくなっているのが現実である。より厳密に言うならば、意味空間は変わっても、物理的空間は変わることはなく、歴史的な感覚時間は変っても、自然時間が変わることはないのである。この空間と時間にはそれぞれに二つの次元があることがグローバリゼーションによって逆に明らかとなった。ちなみに、西田幾多郎はこのような区別をせずに論じているが、現代のコンテクストからは二つずつに分けて考えることが必要である。グローバリゼーションは確実に進行していてこれからもますます国家間の相互依存性が増大してくるが、この問題に対処しうるのは国家のみで、グローバリストたちの主張通り国家が消滅する気配は、少なぐとも予見しうる範囲の未来においてはありそうにもない。
『グローバリゼーションを促すのは比較優位の理論』
これまでは各国の国家は主権国家として独自の存在を主張し、相対的に自立性を主張し、その中で自国の中央市場を中心に国民経済を形成し、過去から連綿として続く文化を誇ってきた。しかし、そうでありながらも、各国間の貿易は積極的に推進され、他国の勝れた文化を吸収し、それを時代の要請に沿うものに修正してきた。古典経済学のリカードの比較優位の理論は、ある国の国民がA製品とB製品を需要しようとした場合に、A製品の生産性がよく国際的競争力があり、B製品の生産性が劣る場合、その国はA製品の生産に特化し、B製品の生産は断念してそれをより低廉に生産できる国から輸入した方が双方に有利であると主張した。この理論に基づいて各国の間で貿易が活発に行われてきたのがこれまでの現実であった。そもそも資本主義経済は資本と労働がより有利な条件のあるところに 移動することを前提としていた。グローバリゼーションが促進されているのもこの現象がさらに強化されたもので、その否定によるものではない。
たとえば、日本では安倍総理と日銀の黒田総裁はデフレ脱却と称して金融緩和政策を実行しているが、企業業績はそれによって上回っているように見えるにも拘わらず消費の低迷で物価の2%上昇の目的が先延ばしになっている。それはリカードの比較優位の理論によれば、生産要素の一つである賃金の動向が世界の最も低い賃金の国に引きずられる傾向にあるからである。大企業でも安倍総理の3%の賃上げの度重なる要講に業績のよいトヨタやホンダはそれを上回る賃上げで応じたが、その中で定期昇給と一時金の手当との比率は公表されていない。その影響からすら除外されている非正規労働者を大量に抱えているの は、世界のこの傾向に対処するためにであって、若しも安倍総理の期待通り非正規労働者問題を解消してそれだけの賃上げが実現されたならば、日本企業の国際競争力が低下することは目に見えている。それに対する対応を取ろうとする経済の論理と物価上昇によって消費税の値上げの条件を整えようとする政治の論理との間には開きがある。経済の論理は政治の論理に引きずられながらも、グローバリゼーションの現実により敏感でなければならない。このように、政治の論理と経済の論理とは異なるが、国民経済という現実の中では経済が政治に表立って反抗することはできず、むしろ否定したくとも否定できない政治の論理に影響を及ぼす道を選択することになる。これはひとり我が国だけの問題だけではなく、アメリカを初めとする先進諸国が抱えている深刻な問題なのである。
この問題は金融政策のみで解決できるものではなく、産業そのものの育成策を講じなければならない。かってクリントン政権で労働長官を務めたこともあるロバート・ライチはアメリカに本部を置きながらも、主な活動を他国で行っている企業よりも、外国の旗を掲げながらも工場をアメリカに置いている企業の方がアメリカのためになると宣言した。現在立場の異なるトランプ大統領が推進しょうとしている政策はこのライチの理論に倣ったようなものである。トランプ大統領の保護貿易政策は重商主義的への回帰であると、神野直彦元東京大学教授は手厳しい。アメリカではかっての覇権が揺らいでいる現在、①従来の 覇権主義を何としても維持して世界の警察官であり続けるか、②縮小しながらも、世界における影響力を維持するか、あるいは③アメリカ一国主義に後退するかの選択肢があるというより、それしかない。ジョセフ・ナイやイアン・ブレマーなどの知識人はそれぞれに異なる方法であっても、②の立場を主張し、民意もそこにあるものと思われる。ところがトランプ大統領は①の立場に固守しながら、それを③のアメリカ一国主義で達成しようとする極めて危険な賭けに出ている。これはグローバリゼーションに逆行するかのように見えるが、一国主義によってその利益を貪ろうとしているのに等しい。
『経済の論理は政治の論理を打ち破れないことが国境の壁』
現在グローバリゼーションが進行していることは否定することのできない事実である。だがそのルーツは近代国家と資本主義の性格に根差す原因に起因するものであって、その観察なくしてはグローバリゼーションも正しくは認識しえない。グローバリストと呼ばれる人々はこのような歴史的問題を無視して現象のみを追っているために、正しくグローバリゼーションを理解しているとは言えないというのが真実であろう。本来近代国家と資本主義とは相い容れない要請を持っている。それにも拘わらず両者が共存しているのは、経済が各国の中央市場を中心に国民経済として組織化されているからである。人と物とお金ないし資本と情報がグローバルに回転しながら、なかなか国家の消滅に至らないのは、その回転が各国の国民経済を媒介として行われていて、その論理とは矛盾を季みながらも、真っ向からは相反していないためである。従来通貨の発行は国の専権事項であり、主権の一つの現れであるとされてきた。それをあざ笑うかのように万国共通の決済に便利なビッ トコインが流通している。それ自体は通貨交換の手間が省かれて便利に見えるが、バブルが発生したり、ネット上の詐欺が発生すると、各国で規制を行う必要性が出てくる。特定の地域のみで流通する通貨の試みもあったが、全国的には広がらない脆弱性を抱えている。
さらに言うならば、経済の成長率は各国によって異なり、したがって、所得水準および 富の集中度は各国によって違いがある。たとえばアメリカの企業のトップであるCEOの所得と一般労働者の賃金格差は実に500倍である。日本ではその数字はほとんど取り沙汰されていないが、社長と重役ないし最高賃金の職員との格差は三倍を出るところはあったとしても、例外でしかない。格差があまり開いては人材確保に支障を来すという理由からであるが、ヨーロッパはアメリカと日本の中間にあるものと考えられ、そこでも人材確保の問題があるのであろう。日産のカルロス・ゴーンのような例外は、文化の異なる国から人材を招き入れるために生じている異常な現象である。彼はかって自分が高額所得者なのは自分の功績に応じてであって当然であると豪語してきたが、それではその間に生じていた不祥事件にどのように処するのかは弁明しておらず、企業としてもそれに触れたがらない暖昧な態度を示している。
このように所得水準やその分配の仕方が各国によって異なるとすれば、当然生活水準や生活様式、福祉水準、医療水準、教育水準、文化水準も各国によって異なるのも当然である。情報革命による情報の流れですら、真空の中で流れるのではなく、国家によって確立された政治的空間の中で流れることはジョセフ・ナイとロバート・キョハネの共同論文において主張されている。彼らによれば、過去四世紀にわたって情報が国境を跨いで流れる構造が確立しており、それを通じてでなければ情報は流れないというわけである。各国政府は情報が流れるチャンネルを割り当てる権力を独占しており、サイバーの設置もその例外ではなく、北朝鮮はいうまでもないが、中国やロシアでは当局批判のツィッターが流れる サイバーを遮断したり、利用を制限することは日常茶飯事である。国境を跨いで活躍する商社マンなどには国境の壁など無いのが当然のように思っていても、実は国境の壁は、経済の論理が政治の論理を打ち破れないという意味で、厳然として存在しているのである。
現在、戦争その他の理由により多数の難民が発生していることは別として、移民が盛んに行われているのに歯止めがかからないのは、グローバリゼーションによって各国の生活水準が画一化したためではなく、逆に各国の生活水準や福祉水準、教育水準に違いが厳存するためである。人々はそれにより、母国では保証されない働き口を求め、よりよい生活を享受しようとする。最近の移民と過去の移民との違いは過去の移民が受け入れ国に同化し、この国の国民となることを願っていたのに対し、最近の移民は故国に残してきた家族に送金し、自分もある程度の資金が溜まり、また技術を習得すれば帰国することを目的とすることが多いことである。そして移民先でも自国の文化を享受し、宗教の拠点を築き、 食堂などを集会所として集まって自分たちのアイデンティティを手放そうとはしない。その度合いは受け入れ国の文化の許容度と逆比例するかのようにも思われるが、結構許容度がある国に来ても、自分たちのアイデンティティを守ろうとする動きは強い。
『国際社会は固有のリーダーを持たない』
経済は国民経済として組織されていても、経済の論理に従ってグローバル化する要因を季んでいるのに対し、文化となるとなかなかそうともいかないのはそれが国民的アイデンティティの基盤となっているからである。文化のルーツは言語共同体にあり、その言語で語られている神話、伝説、伝承および物語り、音楽などがその基底を形成している。それらを持たない国の場合には独立の経緯や独立の立役者に関する物語りが同じ役割を果たしている。その他に宗教が加わるが、神話伝説や宗教が同じ場合には、国家としての発展の経過や地理的条件がアイデンティティの基盤として加わる。その上に共同の体験が重なり、精神的、イディオロギー的、世界観的、文学的、感性的要素が重なる。それらを横軸とすれば縦軸として社会経済の発展とそれに伴う生活様式の変遷や習俗習慣、食文化が加わり、両者が絨毯のように織りなされて、人々の思考方式や行動様式に一定の意味付けと共通のパターンとを与え、人々の感性や味覚、選好のパターンに無意識のうちにも微妙に影響する。そして文化に集約されたナショナルなアイデンテイティが各人それぞれに形成する人格的アイデンティティの基礎となり、人格的同一性と一貫性の基となる。それにも拘わらず、文化は閉鎖的なものではなく、開かれていて、他国の勝れた文化を吸収し、それらと共鳴しながら、時代の変化に対応した新しい文化に作り変えていく。その意味では西田幾多郎が言う通り文化は創造の原理なのである。 創造は模倣から始まるが、それに終わるのではなく、旧来の文化と習合し、自己の革新へと繋がっていく。だが過去から連綿として続く文化には何ものにも動じない強靭さが備わっていて、ある一定の範囲を越える異質物に対してはそれを拒否する力が働く。だから外来の文化や技術であっても、旧来の文化と習合して独自の発達を遂げ、その範囲を越えるものは弾かれていくのである。文化といえどもこのようにグローバリゼーションの波を受け、変化はするが、その動きは遅々としていて、グローバルな文化の誕生はいつの日になるか予想もつかないほどである。
このように各国の経済も文化もけっして閉ざされたものではなく、開放的であり、共にグローバリゼーションや他国の進歩発展に晒されるが、影響にはタイムラッグがある。しかも、それらの受容には政府の政策が窓意的に操作するところもある。政府もまたグローバリゼーションや他国の動向に敏感でなければならないはずである。だが、歴代の政府が自らその形成に指導的な役割を果たした体制価値が文化の中でもひときわ強く定着していて、ひと度国民の間で当然のこととして受け入れられるようになると、政府の政策がその範囲を逸脱しようとすることは難かしくなり、その修正の必要性が迫られても、安倍首相のいう岩盤規制以上に、相当のエネルギーを傾注しなければそれを打ち破ることが難しくなる。政府の正当性の根拠は民意にあり、その操作はある一定の範囲で可能であるとしても、究極的には民意の動向によって縛られる。当然のこととして政府のリーダーは民意の動向にセンシティプとなる。
政府は一国内では全体社会であり、国民とその中に含まれる様々な部分社会を統合しないまでも、その中に包摂する。ところが、国際社会においてはその国家もーつの部分社会 でしかありえない。それなのに、国際社会は部分社会でしか過ぎない国家のリーダーその他の代表によって運営されている。国際社会には国際連合やその他の国際機関が存在するが、それらは各国の代表ないし各国から派遣されたスタフによって運営されている。「国際連合規約」第100条には事務総長以下の国連職員は国際連合固有のスタフであり、それ以外のいかなる権威当局者から指令を受けたり、求めたりしてはならないと規定されている。これは前身の国際連盟から継承した条項である。それにも拘わらず、国際政治学者のジェームズ・ローゼノウやアイケンベリーは国際社会には固有のリーダーは存在しないと主張して譲らない。何故なら、折角の規約を持つ国連も畢寛は各国の集合体でしかありえず、固有のリーダーシップを発揮するための基盤とはなりえないからである。たとえば、 初代の事務総長トリグベ・リーはノールウエーの外相の経験者であり、冷戦下で国連固有の軍隊を作ろうと提案したが、当時のソ連の拒否権の発動で反故にされた。もしもソ連が拒否権を発動しなければ、アメリカがそうしたであろうことは想像に難くない。今日の薄青のベレー帽の国連軍は各国からの寄せ集めで構成されていて、国連固有の軍隊ではな い。アナン事務総長はガーナ出身で初めての国連職員からの昇進で、ノーベル平和賞にも輝いたが、生き馬の目を剥くような多国籍企業に倫理規範を課そうとするグローバルコンパクトを纏めた。彼の在任期間中にも自発的に守られる役割は果たしていたが、国連総会で正式には採択されるに至らず、次の事務総長の代になってようやく日の目を見た。彼が事務総長辞任後に試みたイランの核開発問題への調停も不調に終わった。
国際社会には様々な分野でリーダーと目される人はおよそ無数に存在する。だが、政治的問題を調整しうる固有のリーダーは存在する余地がないのである。それでは国際社会において誰がそのようなリーダーシップを発揮するかと言えば、各国の国内リーダーが出てくるしかない。ところがこれまでも主張したように、各国のリーダーは国内における全体社会のリーダーではあるが、国際社会においては部分社会のリーダーでしかない。当然国際社会においても、自分の代表する国益を代表し、それに基づいて交渉し、妥協することになる。おまけに、各国のリーダーの影響力には国力の差があり、安全保障理事会では第二次世界大戦の戦勝国が拒否権を握って離さない。各国が平等に代表されるのは国連 総会においてであるが、ここでは発展途上国がブロックを形成して先進国に対抗する可能性は確かにある。それも、最近では途上国の間にも、資源を持つ国と持たざる国、資源の付加価値化に成功した国とそうでない国との格差が生じて必ずしも共同歩調を取りえない状況となっている。おまけに、ソ連の崩壊後唯一の覇権国家となったアメリカが国連からの離脱を灰めかしながら圧力を掛ける態度をちらつかせている。これが国際社会の現実である。
『グローバル市民社会は実質を欠いた虚構』
グローバリストたちはグローバル化された国際社会を運営する仕組みとして、グローバル市民社会とグローバル・ガバナンスを挙げている。グローバル市民社会の方はコスモポリタン的意識をもった人々の台頭により実現するものとされている。しかし、本来の市民社会とは意識の高い低いに拘わらず、総ての人々が対等の権利を持つとは言わないまでも対等に参加することのできる社会でなければならない。その市民の間に顕著な格差があるのは望ましくない。オックスフォード大学のデビッド・ミラー教授は国際的な正義を実現するのに、国際的所得の移転を提案している。それとても各国の合意がなければ実現性がないが、各国間の負担の割合と移転を受ける1則にいかなる比率で分配したらよいかを決 める明快な基準は存在しない。そうである限り、グローバル市民社会はその実質的な内容を欠いた虚構の存在でしかなくなる。
グローバル・ガバナンスと呼ばれるものも、これまた国連のような機関の他は実在しておらず、将来においても実現する見通しもない。第二次世界大戦の直後には世界連邦の建設を目指す市民運動が活発に展開されたが、各国政府が自らの主権の制約ともなりかねない世界連邦構想に同意することはありえなかった。グローバル・ガバナンスに代わるものとしてジョン・ルギーが挙げているのは国際レジームと呼ばれるものである。国際レジームは専門分野ごとに構成されるもので、彼の言うそれは経済分野のものである。ただし、 国際レジームもその名では実在せず、国連の担当部局ないしその外にある国際機関が中心となって周辺にNGOsを集めて行われる活動がそれに相当すると見ても間違いないであろう。それらは国連の安全保障理事会、人権理事会、経済社会理事会などの統括下にあるが、それらによって総合調整されているわけではなく、それぞれ専門分野に応じて独自の活動を行っている。国連などの担当部局の職員は国連のキャリア・サービスに属するスタフと各国からの派遣者によって構成されるが、それぞれの分野における専門家がそれに相当し、いわゆるテクノクラートの支配が相互の関連なしで行われている。彼らは一流大学ないし大学院出であって、多くはそれらの三流クラスであると言われても、エリートであることには違いがない。だが、ニコラス・タレブの言葉に従えば、エリートは知識人ではあっても、専門分野以外のことには精通しておらず、専門分野のトンネル・ビジョンから の発言が罷り通っているのが現実である。各国には彼らを越えるエリートが存在し、必要に応じて国際機関で活躍することが求められるが、彼らとてタレブのいう専門音痴であることに違いはない。
彼らに協力するNGOsは3ランクに分類され、国連の会議に出席して意見の提出が許されるもの、ないしその協力者として活動するもの、および単に登録されているのに過ぎないものとなっている。第1の部類に属するNGOsにも、様々なタイプのものがあり、本部と支部がヒエラルキー的に垂直的な関係にあるものと、水平的な関係にあるものないし、もともとネットワーク的な関係にあるものとがある。たとえばアムネスティ・インターナショナルは水平的に構成されているが、最近では同種の垂直的に組織された同種の団体の活動に押され気味である。ここで忘れてならないのは、本部を始めあらゆる支部もそれが本部の一部と見なされないものについては、いずれかの国で法人登録されていなければならないことである。国によって制度の差はあるにしても、そうしていなければ募金することも活動することも正式にはできないNGOs も専門分野に応じて組織されており、 テクノクラートの支配を下支えするものであることは言うを待たない。それらが善意によって活動するものであることは疑いのない事実であるが、彼らを通じてなされる社会への浸 透が満遍なく普遍的に行われている保証は必ずしもない。
『国際的な相互依存が増すほど国家の出番が不可避となる』
グローバリストたちが好んで口にするグローバル市民社会やグローバル・ガバナンスが何を意味するのかが不明であると同時に、現在すでに存在しているものなのか、あるいは将来のいずれの日にかは実現するものかも明らかでない。現在は存在していないとすれば、将来においても実現するものと期待されているものと理解するより仕方がないが、その場合にも現在においてそうなりうる取っ掛かりがなければならない。さも無い限り絵にかいた餅にすぎないものとなる。たしかに、国際レジームはそのようなものとして将来はグローバル・ガバナンスに発展していくものとの思いが寵められているのであろうが、それには相互の調整のメカニズムが欠落していて、そのままではグローバル・ガバナンスの名に相応しいものに発展していくものとも思われない。それを支配の道具とするグローバル市民社会は少なくともそこに集まる市民にとっては、自由が横溢し、皆が平等の発言権を持ち、快適に暮らせる場でなければならない。だが、そのためには地球があまりにも広大過ぎて、どのようにして連帯が生まれるのかは想像することもできない。グローバリゼーションは現実のものとして進行しているが、グローバリストたちの発言は現在の時点では、夢のまた夢である。
グローバリストの中にはグローカリズムを唱える人もあるが、論理としてはグローバリズムとローカリズムは相反する要請のものである。何故なら、グローバリズムの時代には人々の行動半径は放射状にあらゆる方向に向けて広がる可能性を学んでいて、一人の人が複数の落下点において他者と遭遇し、様々な活動を営むようになることが予定されるからである。活動が終わると当該個人の居住する本拠地に戻ることになるが、その地がどのようなものに育つかは今だ未定の状態であって、そこに人々の連帯の輪が広がることを期待するのは無いものねだりのように思われる。何しろ、人と人との間にある程度の接触がないことには、連帯の輪も広がらない。ましてや、国家がグローバリズムとローカリズムの要請によって消滅するなどとは到底考えられない。何故なら、グローパリズムは既存の経済や文化を巻き込んで進行しており、国際的に相互依存が増大すれば増大するほど、その解決のために国家の出番が多くなるからである。ローカリズムの問題にしても、補完性の原則は人々のより身近なところで問題を処理することを求めているが、グローバリズムの下ではその地点がどこであるかの特定は困難であるばかりでなく、地点ごとの当事者能力はますます失われており、ローカルに囚われない新しい問題の解決策を模索していかなければならない。